心が寂しくなければ人は文字なんて書かないんだよ
寂しいわけではないけれど。べっ、別に勘違いしないでよねっ!
この寂しさは郷愁に近い。現状を憂いているわけではなく、この日記をはちゃめちゃに書いていた日を恋しくて文字を書くのだ。
飢えてなければたいていの人間はわざわざ文字なんて書かない。私も同じ。吐き出す先がないからインターネットに文字を投げる。誰かが俺を愛してくれ。誰かが俺の言葉で狂ってくれ。人はそうしてTwitterで愚痴を吐く。
失礼、今はX(エックス)でしたなw
あれからしばらく経ち、間違いなく心身ともに豊かになったとは思うが感性は丸くなってしまったとも思う。この2つは決して両立しない。どちらかを取れば必ずどちらかは鈍る。そしてどちら側に立っている時ももう片方を羨むのだから俺は贅沢でたまらないなと思う。
前書き終わり 以下雑記
好きという言葉が好きだという話
水は水であり、漏れは漏れであり、電車は電車であり、Fate/Stay NightはFate/Stay Nightだが、好きや愛している、嫌いという言葉は感覚が大部分を占めるので他人との言葉の重みが違う。
そんなところが好き。この好きはどんぐらいでしょうか。
日記のこの先はどんぐらいでしょうか。
月を見なかった話
しばらく前に中秋の名月だったが、月を見なかった。以前は毎日のように空を見て名前を知らない(知ろうとしない、現実が襲うため)星に思いを馳せていたのに、画面の先の2次元おにゃのこに思いを馳せられるほど余裕ができている。
ぬるめたおもろいよね
中秋の名月だからと月を見る人間を以前は引っ叩きなる程嫌いだった。お前は日付で月が綺麗に見えるのか。条件次第でそれより綺麗な月なんて何日も観れるというのに、世界に踊らされるなんて不甲斐なさすぎるだろと。
もちろん今でもその考え方を主軸に置いているが、以前ほど毛嫌いはしなくなってしまった。「カスがーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と叫ぶくらい。叩いてないから優しいよね。
俺はそんな昔の俺に恋している。一般的には今の方が良いんだろうが、すり減ったときに出会う素敵なものは通常の何倍も美しくなるし、そんな状態で出る俺の言葉は何よりも真実だと思うため。
しかしそれは両立しない。前書きと後書きを同じ話題に持っていく、ということは両立するが、貧しさの本質と豊かさの本質は両立しないのだ。