日記

金も何もないけど、文字だけは書ける訳ですね。

11/19

被害者ヅラしてる加害者なのかもね
友人と、最近公開した映画原作の小説家の話をしました。
勿論氏の作品は全て拝読していて、映画のパンチはどんなものなのかな〜と明後日になれば見に行く事になっています、らしいよ。知ってました?私、明後日映画見にいっちゃうらしいです。

創作において様々な感情を表現できる方がいますね。恋愛だったり、失恋だったり、はたまた怒りだったり悲しみだったり。他者に向けてだったり、自分自身に向けてだったり、あるいは居ないけど、それでも生きてる中でいつか出会う居るはずの誰かに向けてだったり。

話していた小説家さんは大層な厭世家みたいな人で、死ぬ前に見るような景色を、それはそれは美しく描く方です。どうしようもない自分自身と社会に触れるのは、それはそれは胸が痛い。怖くて身体が動かない。憎くて堪らない。

でも、そんな中でふと見えた一輪の花にこそ、価値がある。そんな世界が美しい。痛いし辛いけれど、その感傷一つだけを頼りにして自己を傷つける。リストカットと特に変わらず、内か外かの違いだけです。

彼は幸せになれば筆を折ってしまうのか。折るとはいかずとも、彼の心を貫くナイフは鈍くなってしまうのだろうか。それならば彼には、とことん不幸になればいい。と、友人は美しい物を見る為にサディスティックなエゴイズムを表していました。

この話の、どこまでが作品なのか。サディズムを求める読者が、自身を俯瞰で見る事まで想定したマゾヒズムなら叶わない。更にそれを刺すサディストがいるならば?

作者を中心として、ナイフを円で囲う様に、波紋が広がる様に人は誰かを刺し続ける。そのどこまでがコンテンツ単体で、どこまでが領域外なのか。そもそも境界線なんてあるのだろうか。汽水域のように、混ざり合うものではないか?
そんな事をぐるぐると考えて、「どうしようもないなあ」と白いワンピースを着た麦わら帽子の少女が夏を連れてやってくる幻覚を見ました。全部どうでもよかった筈なのに、人の目をナイフに勝手に見立てて刺して刺されて、世界は今日も大忙しです。今日は早めに寝ましょうね。